(NEOぱんぷきん記事より)
(宇津山城遠景の絵)
みなさん、こんにちは。参院選も中盤に入ってまいりました。
今月号の「NEOぱんぷきん」には、榛葉賀津也さんの記事が掲載されているとのこと。
皆様、ぜひ、ご覧ください。
遠州地区でしたら、いろいろなところで、「NEOぱんぷきん」を手にすることが出来ます。
ところで、今日のこのブログ記事の話題は、「NEOぱんぷきん」6月号の
「残しておきたい「遠州」のはなし61 遠江の城砦ものがたり・・・宇津山城」の記事です。
※ちなみに、このブログ記事を書くに当たっては、NEOぱんぷきんさんからご了解を頂いております。
宇津山城は湖西市の入出宇城山にある浜名湖に面した城でした。
遠州と三河、そして信州の3か国の交通の要衝に位置する城であり、三方を浜名湖に囲まれた要害でした。
詳細は勿論、NEOぱんぷきんを7月号と合わせて御拝読いただきたいと思うのですが、
印象に残るのは、この号の主人公である小原鎮実の生き様です。
小原鎮実は、今川義元、氏真に仕えた武将。
吉田城の城主であり、西三河の統治を一手に引き受けていた人物でした。
桶狭間の戦いにて、今川義元が討死したのち、
家中に動揺が走り、徳川家康が今川家から離反・独立し、
三河・遠江が家康になびいて行く中、
小原は、今川に忠義を尽くし、一人、奮戦したのでした。
その小原も次第に追い詰められ、ついに宇津山城が、遠江における今川方最後の拠点となってしまいますが、
小原は、今川家復興を果たすべく、全戦力を温存し、無傷で撤退することを決め、それを実現します。
しかも、もぬけの殻となった宇津山城に徳川方が攻め寄せたとき、突如、爆薬が破裂し、城は灰塵と帰すのですが、
このような見事な撤退をやってのけた小原は、名将だったと言ってよいのではないかと思います。
ちなみに攻城軍を指揮したのは、徳川四天王のひとり、榊原康政でした。
このあたりは、NEOぱんぷきんの、小林先生の情感あふれる原文をぜひ、お読みいただきたいと思います。
小原の見事な撤退よりも、心魅かれるのは、小原の筋を通す姿勢です。
落ち目の今川家、周りが次々と力の強いものに変節の誹りをものともせずに、なびき、裏切っていきました。
そのような中、全知全能を尽くして戦う小原の姿勢には、美しさを感じます。
ぜひ、NEOぱんぷきん、原文をお読みください。
よく、今川家は、桶狭間の敗戦ののち、急坂を転がるように衰退した、と言われますが、
最強の当主と、その重臣たちを桶狭間で一挙に失ったうえに、
あの武田信玄と、あの徳川家康から、表と裏から攻められたのですから、
現代から見れば、無理もない気もします。
むしろ、桶狭間の戦いの後、寿桂尼の存在があったとはいえ、よく10年近くも、踏ん張ったというべきではないでしょうか。
今川家が10年も踏みとどまった要因が、小原鎮実や、以前にブログやフェイスブックで書いた岡部元信のような
戦国時代においては、珍しい義理に厚い武将に恵まれたからではないかと思います。
このような義理堅い武将が、最後まで戦い抜いたのは、彼らの美学もさることながら、
それだけ、義元が偉大な大名だったからではないかと推察されます。
歴史は常に勝った者から書かれます。そして、特に近代以前の歴史はその傾向が強いです。
しかし、勝者の歴史だけでは、真実を見ることになりません。
むしろ、勝者ではない者の歴史にも光を当てて、両方から歴史を探ることによって、
私たちは、歴史の真実に近づき、
歴史の真実により近づくことで、
私たちの生きる現代に与える示唆も得られるのではないでしょうか。
勧善懲悪の小説から得られる示唆は、少ない様に思います。
また、埋もれた歴史を発掘することは、私たちが住む郷土、地域の個性を高めることにもなると思っています。
t