当選同期で、元民進党の仲間でもあり、現在は立憲民主党の井戸まさえさんが、「候補者たちの闘争」という本を岩波書店から出版されました。まずは同期として出版のお祝いを申し上げます。私も第1章のP21~22に登場します。ハフィントンポストのインタビュー記事をもとに書いていただいて、私のところについては事実に正確です。候補者の内幕を描いた貴重な書籍だと思います。希望の党のチャーターメンバーのさまざまな行動・人間性についてもしっかりと書かれています。
私が一番印象に残ったのは、希望の党では「自分で風を起こそうとしなくていい、風は小池百合子がおこす、普通の選挙戦をやろうと思うな。公営掲示板にポスターを貼ること、後日に三分間の原稿を送るから、それを丸暗記して選挙カーで演説してまわること、これだけでいい。選挙ハガキとかビラとか電話作戦とか一切しなくていい、ということでした」(P39 ~40)とのインタビューが掲っていて、驚きました。本当だとすれば、「起立要員」としてのみの議員をつくる選挙が行われていたことになります。また、立憲民主党さんもP172に、「候補者に伝えてきたのは自分の名前よりも『枝野』を叫ぶ、ということだった。今回の選挙は「党で選ぶ選挙だ」と…「ご自身がその公認候補であることの周知徹底を図ってください。全国的に見て厳しい状況にある候補者ほど、ご自身の名前のみを強調している傾向が強いという報告を受けています」という記述があり、同様な傾向を感じずにはいられません。私は民進党無所属で戦いましたので、自分の政策や主張をそのまま、ありのまま訴えたのですが…。
マスメディアや広告戦略の先鋭化が図られる中、かつての名望家政党的な姿勢は古いのかもしれません。私も明確な答えはないのですが、それでもなお、私は、基本的には、やはり選挙区での個人へ信頼、個人としての政策が第一ではないかと思います。それぞれの地域と選挙区、そして産業の現場の声、痛みの声を届けるべく、議員は存在していると思います。それを議会の場で、議論し、合意形成を図っていく、最適解を求めていくのが政治ではないかと思います。大きな方向性・ベクトルが一緒ならば、政策や理念は違っていい。むしろ違っていなければおかしい。篠原孝先生は、むしろ小選挙区といえどもそれぞれの地域の声や産業の声を伝えられるのはその選挙区の人しかいない、だから、意見は言うべきなんだ、言わないことはもっとも恥ずべきことだ、議論の結果、合意ができれば、それには従う必要がある、と仰っていて、私も、篠原さんの姿勢に共感しています。
「政治とは価値の権威的配分である」とイーストンは言っていますが、その配分のために、それぞれの地域の利害と意見を伝え、そのうえで判断するのが政治だと思います。だから、起立要員だけをそろえる選挙手法には、私は、どうしても違和感を覚えてしまいます。このような起立要員を生み出す方法は、短期ならばともかく、中長期的には人材リクルートの問題をも招きかねないとも思います。もちろん、比例もあるし、資金のこともあるし、党の影響はよくも悪くも受けるので、小選挙区制度のもとではなおさら、党を否定するわけではありません。しかし、党としての一体感と選挙区の利害と意見を伝える、そして政治家個人の見識の両方が必要であり、その絶妙な緊張感が求められるのだと思います。